お茶の歴史

伊勢茶が世界に輸出されていた。
前号では、お茶が中国から伝わり、日本で文化にまで発展したことをご紹介しました。産業としてお茶の生産がはじまった江戸時代から明治にかけてをお話します。

伊勢茶の礎を築いた中川教宏(水沢郷土史稿)

中川教宏は文化三年(江戸時代)十月十日、現在の三重県四日市市水沢に生まれ、天保三年に水沢の常願寺の第九世住職となりました。教宏氏は、教師として京都の東本願寺に在る時、山城宇治の茶業を目にし、有益な産業として茶栽培を水沢に薦める決心をしました。

嘉永二年二月、水沢に帰ると宇治から茶種を取り寄せ、三町あまりの茶園開き住民に茶栽培を奨励しました。(今でも常願寺畠と言う)ところが、檀家の人々は茶栽培を僧侶の仕事として喜ばず、檀徒総代は仕事の中止を強請しました。茶業の有益なことを熱心に説明しましたが聞き入れられず、農作業の暇な時期に檀徒の手によってやむなく茶樹は掘り起こされてしまったのです。

お茶の輸出に貢献した
  大谷嘉兵衛

  (伝記から)

大谷嘉兵衛は、弘化元年(1844)十二月二十二日に三重県飯南郡飯高町大字宮本に生まれ、二十四歳の時に横浜第一の製茶輸出業「スミス・ベーカー商会」にてお茶の買い入れを担当し、お茶の輸出に尽力しました。

その頃、日本は江戸から明治に代わり、海外との貿易をますます増大していた時代でした。農業国であった日本は、輸出産品としてお茶を位置付け、アメリカに大量に緑茶を積み出していたのです。

大谷氏は、明治二十四年に全国茶業組合中央会議所の議長となって海外茶貿易の増大を図り、販路をアメリカ、カナダ、ロシア、フランスなどにも広げ、出張所を置きました。

明治三十二年十月にはアメリカに渡り、万国商業大会に日本代表として参加し、茶関税の廃止を大統領マッキンレーに要請しました。その四年後、ついにアメリカの茶関税は廃止されました。

三重県出身の大谷氏は、全世界を舞台にしてお茶の振興に尽力し貢献した茶業界の大恩人です。

教宏氏は、それでもくじけず、当時山中にあった冠山『茶の木原』のお茶を摘み取って製造し、茶栽培が住民にとって利益あることを広く知らせようと啓蒙宣伝を行いました。その甲斐あってか徐々に熱意が住民に受け入れられ、明治に入ると鎖国が解け、お茶は輸出産品として脚光を浴びるようになりました。そして、お茶は海外貿易の重要な役割を果たすことになったのです。